昭和47年09月15日 朝の御理解
御理解 第七十九節
「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」
この御教えぐらい、信心のある者、ない者でも、同じといったような感じの御教えはないですね。これは、本当の商売人ですね。本当に、商売が繁盛する店なら、絶対、これを実行してますよね。これは信心がなくてもそうです。また体はちびるもんじゃないから、働けとおっしゃるのも、そうです。人が三時間働くものなら、四時間というように、人よりも、少しは、ましな働きをしなければ、ましな事にはなってこない。当然の事。商売人が、売り場買い場を大事にする。
これは絶対お客さんからも、卸元からも信用が出来るでしょう。しかも十銭のものは八銭で売ると言うなら、絶対売れないはずがない。繁盛しないはずがない。ですからこれは信心がなかってもやはりそうです。ところがそれだけの事が実は難しいのです。以前日田の綾部さんから聞かせて頂いた話ですけれども。成程繁盛するお店は違うなと、私は思わせて頂いたんですけれどもお酒屋さんですよね。戦時中はお酒屋さんが酒を止めねばならんほどに、配給が極度に制限されましたから大変困った訳です。
そこで闇値といった様なものが出来て、闇から闇の商売になった訳ですけれども。今あちらで、中心に売っておられるのが、角の井という酒です。大変大きな酒屋ですけれども。その大きな酒屋さんの、醸造高の半分は、綾部商店で売られるという、大した事ですね。だから、小さい酒屋さんなんか、何軒分か売られる訳です、醸造屋さんの。それがその、戦時中にもですね。あちらの大将が言われるのに、お宅のお父さんから、酒屋さんが、売る事に大変骨が折れておる時分に、もう絶対角の井を売って頂いたと。
こう言うのである。だからお宅だけには、出せんところでも出すと言うて、戦時中に助けて頂いたと、こう言われる。卸元を大事にしておられたから、現在の綾部さんの時代になられても製造元、醸造元の方が、大体は売れないものでも、工面をしてそこに出してやるといったような、おかげを頂かれた。そこで現在の綾部さんも、又戦時中に助けて頂いておるから、何処から何と言うて来ても、またどういう醸造元との問題はあってもです。やはりそこの酒を中心に、現在でも売ってる。
現在なんかは、酒の乱売らしいですね。けれどもやっぱり、角の井さんを現在取っておられる。卸元を大事にしておると、そういう事になる。まぁこれは引き換えて、私達の場合になると、私達の場合は、やはり上げ酒屋ですから、もう一銭でも安か所があるなら買おう。しかも叩いて叩いて買う。とりわけ醸造元の税金時というのは、一番買いよい時。ですから、小さい力を持たない酒屋さんなんかに行きますと、勿論良い酒ではないですけれども。もう税金だけで買えたという時代がありました税金時には。
当時一升、四十銭の税金がつきましたよね。それが八十銭か一円位の酒です。半分は税金だったです。今でも同じですね。酒はそんなに税金が高い。その税金が納まらない訳ですね酒屋さんが。そこで税金時を狙って買う訳です。勿論よい酒ではないけれども、税金だけで買われるといった様な四四十六円、一樽が十六円といった時代。もう何処という事はないです。もう安かつがあるなら、叩ける所があるなら、叩いて買うと言う。私達が、やっぱおかげ頂かなかったはずです。
それは売るとか、買うとかという事は上手じゃった。と思うんです。仕入れなんかでも、その様に、先程の、税金だけでも買うといったような、買い方も出来たし。例えば、並み酒を中銘で売ったり、中銘を銘酒で売る。それだけの技術も、また身にも付けておりましたよ。けれども、そういう事は平気であり、そういう事が出来る事が、よか商売人だと、私だん思うとりました。例えば食品に、色んな使ってはならない薬品がありますが、今に始まった事じゃないです。
私共は酒に本当に使ってはならない薬を使いました。そしてそれをよくしたりもう絶対悪くならんといったような手も、覚えておりました。それを覚えるのが上げ酒屋の腕だと、私は思うとりました。ですから、売り場でも買い場でも、もう実を言うたら、そのように粗末に扱って来てるものですから。本当のおかげにならないはずだと思うです。その点、今の綾部さんの例をとりましたけれどもです。信心はなかっても、そういう行き方です。例えて言うなら、卸元があって、小売が出来る。
醸造元があって卸が出来るのだから。卸元いわゆる醸造元の方だけは大事にしなけりゃいけないぞ。同時に、お客さんのおかげで、生活が出来ておるのだから、お客さんを大事にしなければいけないぞと言う、その店の規則とでも申しましょうか。そういうものを作っておって、それを、子供にも孫にも、うちの店はこれが信条だといったようなものを、残していきゃ、やっぱり親の代、子の代、孫の代という風に繁盛するだろうと思うですね。そういう行き方が、うちの行き方だと、こう言うのです。
例えばそんなら綾部さんの場合なんかは、そうした卸元というだけでなくて、小売店も非常に大事にされるですね。言うならお得意さんには、惜しかもんはないごたる、行き方をされる。これはどうしても、これこれだけの利益は、こりゃ決まりだから、貰わねばならんと言う様な品物でも、そんな年末なら年末、盆なら盆にです割り戻しをされる。といったようにです。もう本当にお得意さんを、その位大事にするならです、商売は繁盛します。だから、信心があってもなかってもです。
そうするならばお店は繁盛する。その上体はちびるもんじゃないから、働くというここに教えておられる様に一生懸命、そんなら番頭が五時間働くところは、主人が六時間も七時間も働くといったような行き方をするなら、絶対繁盛する。もうこれは絶対です。これは信心があっても、なかってもそうなのです。けれども信心があってもです。今私が過去に於ての商売の事を思わせてもらう時にです。
そうして教えもこうして頂いておるのにもかかわらず、十銭のものは八銭で売るどころか、十銭のものは十一銭、十二銭で売る事がおかげのように思うておった。成程、目先は儲かった。けれども、それは本当のおかげにならなかった。信心しておってもです。やはりその程度の事しか、ただ繁盛する事だけを願う。よう売れる事だけを願う。それでも、おかげは下さるように見えるけれども、本当のおかげにはならない。
ですから、そうして教祖の御教えを頂かなくっても、実際に出来ておる人達があるのです。だからそういう所が間違いなしに、繁盛しておるです。けれども教祖の御教えを頂いておっても、それを忠実に守らない。それでおかげおかげと言うてもです。目先目先のそん時そん時のおかげは、確かに御利益を受けておるけれども、本当のおかげになっていない。この御教えをそういう風に頂きますとです。これは教祖様じゃなかったっちゃです。こん位の事は誰でも知っておる事だ、言う事だという事になるのです。
けれども、私は、七十九節は、教祖様がそうおっしゃるのであるから、そう教えておられるのであるから、教祖様のお言葉を忠実に守るという事が、商売なら商売の上に表れてくるというところにです。そこから、これは、無限大のおかげと言うかね。教祖様の御教えを、教祖様のお言葉だからと、それを行うところに、それは、教祖様ではなくても、繁盛という事には繋がるのですけれども。
まして教祖様が教えて下さる事。教祖様は信心する者はかくあらねばならないと教えて下さるから、それを実行するという事になるとです。これはよく売れるというだけではなくてです。神様の御信用がついてくるです。あの氏子は忠実だあの氏子は、忠実に私が教えた事を言うことを聞いてくれるという事になるのですから、神様の御信用がつかんはずがないです。それが素晴らしいのです私はこの御教えは、そこ迄いかなければ信心のある者でもない者でも、ここのところの体験者などはそれが言える事なんです。
他所よりか勉強するなら絶対売れる。しかも売り場買い場を大事にすると言った様な行き方をすりゃ。いよいよいけない時でも例えば、綾部さんの例をとるなら、もう普通は売られない時でもです。お宅のお父さんから大事にされておったから、言うなら御恩返しのつもりででも他の店には売らんでも、お宅には売りますというような、おかげになってきておるでしょう。信心がなかってもそうなんです。だからうちの行き方はこれだという事を、子供に孫に伝えてゆくなら、その店は子々孫々繁盛していくでしょう。
七十八節に「神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来る。」というおかげでなからなければいけん、信心の場合。教祖様の教えて下さる事を実行する。成程、おかげを受ける。卸元にも喜んでもらう。お客さんにも喜んでもらう。神様には尚更喜んでもらう。その喜びが返ってくる。それが御徳である。
成程神の大恩が分かり、神様のおかげをおかげとハッキリ分かってくる。そこにです、それは商売が繁盛するというだけではなくてです。無事達者で子孫も続きという。しかも、一年勝り代勝りのおかげが受けられるという事になってくるのですから。大変な違いです。教祖様の御教えを、身をもって行じて商売をしておる。だから商売だけの事じゃありません。一事が万事にそうです。他の御教えを頂いても、たった一言の御教えであっても、教祖の御教えを、本当に根限り、行じ抜かせて頂くという事になると、そこから御徳を受けていく、そこからおかげを受ける道が開けてくる。
教祖の御教えに忠実たれという事。だからここのところはですね、例えばこの御教えに、商売をする人が忠実になって、初めて分かる事だと思うです。ははぁこれはおかげだけじゃなかぞ。これによって力を受けるんだなと、御徳を受けるんだなという事が、実行してみて初めて分かるのです。本当にですね純粋にそれを頂くという事ですよ、やはり信心とは。昨日杷木の市川さんがお参りになった。ちょうど二時頃でしたかね。
それからひとせん御理解を頂いて、それから皆さんが次々とお参りしてくる。それに頂く御理解を熱心にそこで拝聴しておられる。それからまたテープで御理解を頂いて、とうとう四時の御祈念迄おられた。それから四時の御祈念を終らせて頂いて、ここへ座らせて頂いたら、それこそ感動してですね、出て見えました。と言うのが、それがどういう事かと言うと、青年時代からの信心です。今が丁度七十だそうですから。五十何年間かの信心をしておられる。
甘木の初代の時分に、熱心に先生のお話を頂かれた方なんです。それに私がある事を伝えさせて頂いたら、「あなたは長生きをしなさるですよ」と私が言いました。ああたは、非常に青年のごたる。もう非常に理屈が多い。それは先生どうしてですか。それはどういう訳ですかと言うて、いつもですけれども追求して来られる。共励会なんかへ行っても、やっぱりそうだそうですね、あの人は。どうしてですかは必要ですけれども、ちったへ理屈のところがある訳です。
昨日も私が御信者さんが、先生の事を頂く場合がある。先生が改まらなければならん事を、信者が頂く場合がある。という話をしたんです。そしたら折角神様がお知らせ下さるならば、信者にどん教えんな、あぁた先生に直接神様が教えなさりゃよかとこにですね、それはどういう訳ですかといったような理屈なんですよ。だから私が言ういました、「ああた長生きするばい」ち。もう本当に青年のごたる、その質問の仕方が。と言うて、言うた事でしたけれども。そげな事は問題じゃないて。
先生が信者がここではよく皆さんが、親先生が亡くなんなさったお夢を頂きましたなんて言うようなお届けがある時にね。私が本当に空しゅうなっておらなければいけないと。これはいつも思ってるです。ところが空しゅうなっておらずに、私が出とる我が出とるからさぁ死ね死ね、自分という者を殺してしまえと、神様が言うてござる事を信者から聞いて、そして私が改めて改まるという事があるという事なんです。それを他の教会で起った事を例にして話した訳なんです。
そんならあぁた信者にそんな難しかこつを教えなさらんでん。先生直接神様が教えなさりゃいいのに、そらどういう訳ですかといったような、生き方なんですね。だから先日も丁度神愛会の、先生方の会合の時に参り合わせてありましたから、ああたも傍聴して行きなさらんですかと言うて、いわゆる傍聴しておられました。そん時に末永先生やら富永先生辺りの話を聞いてですね。もう本当に、合楽の親先生の真似をしただけでも、おかげを頂いておると。
例えば末永先生の場合なんかは、御結界はどこの教会でも右になるのですけれども、合楽風に左に据えておる。おかげを頂いてこの頃、合楽流のおかげが段々頂けるようになったという話を発表しておりました。富永先生でもそうです。本当におかげを頂いて、例えば、お神酒がとっても沢山集まるのが、もう此の頃ほとんど、超特級ばっかりが集まりますと言うような体験談を、あぁたも聞きなさったでしょうがち。
だからあの人達の場合なんかは、理屈はないですよ。御結界は右にせんならんもんだ。それは左ではおかしいなんて言わずに、合楽が左にしておられるから、左にしておるんだというだけ。富永先生の場合でも、月次祭は三回だけれども、合楽が四回だから親先生がもう一回いみらかせと言わっしゃったから、四回にしたらやっぱり同じ月次祭、四回共お参りがあるという話をしとりました。
だからね信心というものは理屈じゃないよと。あんたが折角杷木の教会の御信者さんですけれども、合楽にこうやって繁々と参ってみえるのだから、合楽の流を頂こうと思うならば、おかげを頂きたいと思うならです。昨年胃ガンでおかげ頂いた人なんですよ。だから、そん時のおかげを思うと、やはり参って来なけりゃおられん。お礼参りしなきゃおられんという訳なんでしょうけれども。
折角頂くなら合楽流のおかげを頂いた方がようはないですか。いや私が理屈が多いから、本当に純粋にならにゃいけん、純粋にならにゃいけんと言うて、その事を四時の御祈念の時に、一生懸命にお詫びをしたりお願いをしたと、こう言う訳である。そしてここへ四時の御祈念が終ったら、感動して出てみえたんです。「親先生ちょっと私は初めてこげな事は」という訳なんです。ハッキリと御心眼を頂いてある訳です。丸いお盆に、煎餅が上がっとるお菓子の。その煎餅もリンが一杯かかって。
もう甘すぎるじゃろうち言うごたる煎餅が、丸いお盆に一杯積んであるところを頂いた。もう私はびっくりした。初めてこげな事はとそれが、ここで言われる御心眼というものであろうかという事でした。それにはいろいろ御理解がございますけれども。例えばそんなら、私の言うた事にほんなこと、自分な年の七十にもなりながら、青年のごたる理屈を言う。理屈こくこつは言わずに、親先生が仰るなら仰る事を、そのまま純粋に頂こうと、今迄の事をお詫びして。
これからの事を願わせて頂いたら、早速私が頂いておるようなおかげを頂いておる。これは、ここに一本の柿の木があるならば、枝もありゃ葉もあるけれどもです。同じ柿の木であるならば枝にでもやはり、同じ柿がなるという事なんです。取り分け私を親先生と言うて下さる方達の場合が、親先生をそのような純粋な頂き方をするならです。親と一緒にうどん屋に入ったらです。お前はもう他のもんを食べとけてんなんてん言いやせん。親がうどんを食べるなら、子供にもうどんを食べさせる。
しかも支払いは親がするようなものなんだ。と言うてお話をした事ですけれども。今日の御理解から、その事を頂いて欲しいと思うのです。例えばね教祖様が、かく教えられるのであるからと純粋にです、目先は損のようだけれども、十銭のものは八銭で売る。売り場買い場を大事にする。体はちびるものではないから、働くがよいというような行き方を身につけさせて頂く。教祖様がおっしゃるから、そうするんだというところにです。教祖様が頂いておられるようなおかげも。
言うなら御神徳も、また受けられるという事が分かるでしょう。だからこの御教えはね、信心があってもなかってもです。この位の事は誰でん知っとる事。またはこれを行じておる商売人なら、絶対繁盛しておるという事。けれども難しいですね。やはり目先が損のようなところにです。やはり幻惑される訳ですね。一銭でも高う売る事がおかげのように幻惑されて、本当のおかげになってこないという事。
昨日、お道の新聞を見せて頂いておりましたら、こういう事が書いてある。「実意をこめてすべてを大切にしていけば、必ず神の働きが、生活の至るところに実証され、本教の御教えに基づいた信心の稽古を積めば、必然的におかげになっていく」と。これは信仰の法則とも言うべき、金光教独特の内容が展開されるという意味の事が書いてある。だから、ここのところはです。金光様の御信者であるならば、教師信者を問わず、誰でん知っとる事でしょうが。今私が申しました事は。
教主様の今のお言葉だってです。これは誰でも知っとる。いわゆる今日の御教えと同じ事です。信心がなかったっちゃ、これは知っとるです。けれどもその事を実意をこめて全ての事を大切にという事は、もう口癖のごと、又はどれだけ聞いたか分からん位に、聞いたり、言うたりしたりしとる事だけれどもです。それを行じないところに、神を表わすおかげの実証というものが伴わないのですよ。
そこで合楽ではです。全ての事に実意をこめて、全ての事を大切にするという事を、具体的に噛んで含めるように教えておる訳ですねここでは。例えば成り行きを大事にせよとか、拝んで受けよとか。御事柄として頂くんだぞとか。これがいわゆる実意をこめて、全てを大切にする。それをですねただ具体的にその事を、かく行じてゆかなければ、かく表わしてゆかなければという事を、合楽では言ってる訳です。
だからその事を本当に、成り行きを大事にすると言うておるだけじゃなくて、本当に成り行きを大事にさせてもらう。どういう事柄であっても、御事柄として、それを受けていくという事に、徹底していくところにです。道の実証と申しましょうか。教祖様が教えておられるところの御教えを実証していく事が、証を立てていく事が出来るほどしのおかげが頂かれる訳なんです。
それを実際に行じずして行わずして、言うておる事、知っておるだけでは例えば今日の御理解、二銭安う売りゃ余計売れる事は知っとったっちゃ、それを二銭安く売るどころか、高う売ろうという様な気持ちを、おかげのように思っておる時代はです。その場その場のおかげは頂いてもです。目先目先のおかげは受けてもです。本当のおかげにはならないという事を徹底分からして頂かにゃならないと思うですね。
兎に角御教えに忠実でなからなければいけない。それを行の上に表わしてゆかなければいけない。そこからおかげが、売れる売れる、繁盛という事だけでなくて、その事から御徳を受けて行く。そこから神のおかげを分かる事になって、又は神の大恩を知る事になって、無事達者で子孫も続き、身代も出来一年勝り代勝りのおかげの受けられるほどしの御徳を受ける事が出来るのですね。
どうぞ。